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ニコライとの出会い

【木村謙斎との出会い】
 木村謙斎は文化11年(1814)に沼館(大館市沼館)の豪農、田山藤四郎の長男として生まれ、謙斎は幼少の頃から学問に優れていたが、田山家の相続は弟の徳平に譲り、秋田(久保田)の明徳館に学んだ。その頃大館向町に住んでいた道隣という医者が久保田で謙斎を見つけて大館に連れ帰り、木村家の婿に迎え入れた。
 謙斎の生きた時代の日本は内憂外患激しさを増していった時であった。また、ロシア船の松前、津軽沖の出没は、東北諸藩の緊張を増し、安政4年には大館にも蝦夷地警備のため出兵が命じられ、謙斎は派兵の軍医とし渡島し、函館郊外の「増毛」詰として勤務にあたった。やがてこの勤務が解かれた後、再び渡島して函館で医業を開き、その傍ら私塾を設けて北海道警備の武士に漢籍を講じた。 

 ニコライは謙斎の塾に毎日のように、通訳を伴って、日本国史や儒教、神道等、日本についての基礎知識を学んだ。元治元年(1864)春頃、木村謙斎は函館を引き揚げて大館に帰ることになるが、ニコライは、この頃来日四年目を迎え、謙斎の塾での学問が益々面白くなっていた時だけに、落胆は大きかった。この時ニコライはガラスのコップ一対と銀のフォークを勉学の感謝の印として贈っている。
 現在このコップは大館市部垂町の木村家に家宝として桐箱に入れられ大切に保存されている。箱の横に謙斎は、「西洋茶碗並西洋箸入」と大書し、蓋の裏には「元治元年甲子四月於箱館魯西亜旅館 魯西亜僧ニコライ与木村光永」と記している。一方、銀のフォークは謙斎の六男、山城常助筋にあると言われているが、未確認である。この箱書には、謙斎(木村光永)のニコライへの親愛と函館の思い出がにじみ出ているように感じられた。
 この年の5月、ニコライの前に安中藩士の新島七五三太(しめた)という一人の青年が姿をあらわした。ニコライは日本語と英語の交換教授約束で彼を領事館に寄宿させ、古事記の講読が始まる。

 この新島青年こそ、のちに日本組合キリスト教会を創立し、同志社を興す新島襄である。翌年6月14日、外国船で日本脱出をはかった新島は、『函館紀行』の中でニコライの人格のすばらしさを記述している。ニコライはこの時、大きな夢を持ってアメリカへ羽ばたいていく新島の為に領事館内で写真を撮らせている

【木村謙斎のその後】
 元治元年(1864)木村謙斎は大館へ帰ってから、ニコライの宣教の側面援助となる働きをしていくのであった。
儒学者でもあった木村謙斎はニコライと親密な関係を持っていたがロシア正教の信者になるには至らなかった。しかし、正教には関心を持っていたらしい。

 ニコライが明治26年(1893)5月に奥羽地方巡回の旅をして大館に立ち寄った際、古くからの信徒モイセイ塩谷の口から思いがけず謙斎の名を聞いた事の驚きをニコライは日記(5月22日付)に綴っている。明治16年(1883)2月21日、69歳で没した。

【そしてもう一人の秋田県人:津谷市太郎】
 さて、函館のニコライと秋田県人の出会いの中で、もう一人特記すべき人物がいる。ニコライが伝染病にかかったとき、不眠不休の看護をした人が鷹巣町坊沢生まれの津谷市太郎である。

 異郷の地で病に倒れたニコライには津谷の献身的な看病がどれほど嬉しかったことであろうか。明治35年頃70余歳で郷里鷹巣に帰った津谷に対して、ニコライは終生月額2圓ずつ贈ることを忘れなかった。

 市太郎は明治43年5月13日82歳にて永眠。彼が洗礼を受けていたかは不明であるがこの頃鷹ノ巣には一見の信者があると記録されている。坊沢の曹洞宗永安寺に墓があり、戒名「開庵院哲仙了翁居士」とある。

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