北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂
神父さんのおはなし
祈り、働く 2024年10月
10年ほど前に縁あってオーストラリアの修道院に2週間ほど滞在したことがあります。
キャンベラから数時間ほどの山林と牧場地帯の中というロケーションで、オーストラリアのとてつもない広さと手付かずの自然に驚嘆した記憶があります。
その修道院は見習いや短期滞在者も含めて10数人程という小さなコミュニティで、修道院長の方針で皆なるべく手仕事に携わるようにという指導がなされていました。
院長自身もイコン画家として板絵やフレスコの制作を行っていましたし、修道士たちは陶芸、 養蜂、ロウソク作りなどで修道院の運営資金を得ていました。
また生活に関する部分でも、 調理、車の修繕、森での薪集めなど、まさに修道院らしい「祈 り、働く」という生活がなされていました。
私も調理と薪集めの手伝いを命ぜられ、台所や森で清々しい汗を流しました。
さて、その後私は神学生になり、今はこのように教会をいくつか預かって司牧、管理する立場となりましたが、日々の生活の中で、改めてこの修道院で学んだ 「手仕事」「体を 「動かす仕事」の大切さを思い出します。 まさに今もそうですが、パソコンの前に座って原稿を書いたり、会計帳簿を付けたり、各所に連絡を取ったりするのももちろん重要ですが、パンをこねたり、 境内の花壇を世話したり、聖堂の物品を作成したり、身体を使う仕事はより健全であると実感します。 手仕事では、身体が覚えている動きを淡々としたリズ ムで行い、脳みそはフル回転しません。 仕事のコツコツとしたリズムの中で、より無心になっていき、その思考の余裕の部分に祈りが満たされます(もちろん逆に雑念が入ることもあるのですが・・・)。 仕事のリズムが祈りのリズムになり、仕事の達成の喜びが祈りの喜びと一体となるのが、修道士の手仕事の効果といえます。
歴史的に振り返れば、確かに修道士の仕事とは手仕事でした。4世紀前後のエジプトの砂漠にルーツがある修道生活ですが、古代の修道士は砂漠に一人で、 あるいは数人の共同体で村を作り、そこで祈りと節制の生活を送りました。 彼らも生活の糧を得なければならないので、そんな彼らが選んだ労働は手仕事でした。彼らは川やオアシスに生えている植物を刈り取ってきて、繊維をほどき編み上げてゴザやザルを作っては村に売りに行き、パンや野菜を得ていたそうです。 古代の修道士のエピソードを集めた書物によれば、中には祈りに集中し過ぎてとてつもなく長いゴザを編んでしまっていることに気付かなかった長老もいたとかいないとか。
「祈り、働く」というテーマは必ずしも修道士だけのものではないと思います。私たち在家の信徒もまた彼らと同じように祈り、働く生活を送るべきだし、日々の簡単な手仕事の中にそれを見出すことができるのかもしれませんね。