北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂
神父さんのおはなし
2025年9/1発行 会報『不来方より』抄録
今年7月の参議院選の時期、にわかに「外国人差別」の問題が提起され、様々な人が様々な立場で意見を交わしていました。差別の問題は真剣に考えると意外と難しく、「差別は良くない」ということは誰もが知っていますが、いざ「何が差別か」と問うと、これはなかなか一筋縄ではいかない問題になります。そんな中、俳優の高知東生さんがSNSで投稿した言葉は、なかなか意味深いものであるように感じました。以下引用します。
「こっそり言うけど俺は『差別を許さない』と声高に叫ぶ人は少々苦手。そういう人は『自分は差別をしない賢い人間だ』と自分のことを思っているんだよな。人間って、誤解や偏見から簡単に差別なんかするぜ。全てに物知りの人もいないし。『うっかり差別してるかも?』位に思える人の方が俺は信頼できる。」
「差別を許さないと声高に叫ぶ人」が自分のことを「差別しない賢い人間」と本当に認識しているかどうかはひとまず置いておいて、「人間は簡単に差別するものだ」「うっかり差別しているかもしれない」という自己認識は非常に重要な視点に思えたのです。
高知さんのプロフィールを振り返れば、彼自身決して清廉潔白な人生を歩んできたわけではないことが伺えます。若い頃から薬物を使用し、今から10年ほど前には逮捕・起訴されています。おそらく自分自身の弱さや悪事に染まってきた身の上などを直視せざるを得ない状況に置かれてきたことでしょう。自分の弱さや罪深さを認めることは辛く、心を消耗することです。自分は自分が思ってきたほど立派でも優秀でもなく、弱く情けないものであるということを受け止めるのは相当に苦しく、目と耳を塞いで何も気づかなかった振りをして過ごす方がはるかに楽なことです。しかし自分の情けなさから逃げずに、それを受け入れたからこそ気付ける事柄もあるはずです。
自分の心の中をしっかりと見つめた時、確かにそこには「人にレッテルを貼る気持ち」「人を蔑む気持ち」、すなわち「差別する心」が存在するかもしれません。いや、誰の心にも存在するのでしょう。人間は自分や自分の所属するコミュニティから見て異質なもの、理解しづらいものに対して拒否反応を示します。これはある意味本能的なもので、自然な反応とも言えるでしょう。誰の心にも異分子を警戒する心理的な機能が備わっていますが、それが暴走すると差別に繋がっていきます。もし自分の心の中にあるそのような側面に気付かず、あるいは本当は気付いているのに気付かないふりをして、誰かに「差別主義者」の烙印を押して非難・糾弾するのならば、その鈍感さ、欺瞞はより悲惨です。結局それは「異分子の拒絶・排斥」という同じ心の裏表であり、ここから反差別という名の差別にさえ繋がりかねません。そしてそれは差別問題に限らず、あらゆる「正しい」事柄において起こりうることです。
ハリストスは石で罪人を撃ち殺そうとする人々に、「まず自分に罪が無いと思う人から石を投げればいい」と語りました。この問いかけは常に私たちの心の中に無ければならないものです。「差別しない側の人間として差別と戦う」、それは勇ましく格好よい姿に見えるでしょう。しかし「うっかり差別してしまうかもしれない側の弱い人間として、常に自分を省みて、誰かにレッテルを貼ったり蔑んだりしないように注意深く生きる」姿の方が、もしかしたらよほど尊く強いものなのかもしれません。