北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂
神父さんのおはなし
おいしい人生 2024年6月
テレビのバラエティ番組などが発祥と思われる「美味しい」という言葉があります。
決して美味な食べ物を食レポするときの言葉ではありません。ではなくて、ちょっと失敗してしまったり、かっこ悪かったりする瞬間を映されてしまった時に、「かえって美味しいか らええやん」というアレです。
バラエティな どではしばしば出演者がいろんな企画に挑戦し、その挑戦をどのようにクリアしていくかの様子を放送しています。 料理を作ってみる、目的地まで飲食店を探してバス旅をする、気難しげな大御所芸能人と若手芸人が一緒にロケに行く(普段見ている番組がバレそうですが…)。 そういった挑戦の中で、しばしばチャレンジ的には 「失敗」と呼ぶしかないような場面に出くわします。
森の中で 道に迷ってしまったり、大御所に小言をもらったり、面白いことを言ったはずなのに全然ウケず大スベリしてしまったり(「それも演出」と言わない)。
そのような失敗シーンになってしまっても、トータルに見ればその失敗そのものが面白く、結果的には悪くなかったという時に「美味しい」と言えるわけです。
私たちの人生にもいろいろと想定外のことが起こり、必ずしも最初に思っていた通りにいかないことが多々あります。また何かにしくじってしまって、とてもカッコ悪く恥ずかしい思いをすることもあります。
そのようなときに「いやいや、こういう経験もできてかえって美味しいやん」と思える人はしなやかで強靭な人と言えるかもしれません。それはただ鈍感で無神経なわけではなく、 実はあらゆる状況を受け入れられる柔軟性を持っているからできることです。
多くの人の目の前で派手に転んで笑われたら恥ずかしいでしょう。しかしそこで恥ずかしさに打ちのめされて唇を噛んで下を向いていても「転んだ」という事実はもう覆しようがありません。
転んでカッコ悪かったけれど、みんなが笑ったからよかった、と「逆に美味しい」と立ち上がるならば、人々はかえってその強さを 認めるかもしれません。
あるいは笑いにできないような本当に深刻な失敗をしてしまったとしても、その痛みを体験したことで、二度と同じ間違いを犯さないような教訓を得ることができるかもしれません。
それはそれで「美味しいこと」 と言えるでしょう。
私たちキリスト者は人生に起きるあらゆる ことを神から与えらえた一つの「シーン」として捉えることができます。そのシーンで成功しても失敗しても、本人次第でその結果は「美味しい」ものにしてくことができるはずです。
どうせなら「美味しい」人生を送りませんか?