top of page

神父さんのおはなし

「ルサンチマン」という敵 2025年5月 会報『不来方より』抄録

 

「神は死んだ」という言葉で知られる思想家ニーチェは、キリスト教的価値観を激しく批判し、人間中心の思想を打ち立てました。ある意味では、キリスト教の“天敵”のようにも見える人物ですが、彼の指摘の中には、私たち信仰者が耳をふさぎたくなるような痛いところを突くものもあります。

ニーチェが注目した概念のひとつに「ルサンチマン」があります。これは、人生の苦しさや不条理に対して生まれる恨みや僻み、劣等感といったネガティブな感情のことです。それを力によって乗り越えるのではなく、「強い者こそ悪」「弱さや貧しさこそ善」と価値観を逆転させて自らを慰めたり、「この世を謳歌する者はやがて神に裁かれ滅びる、弱き者こそ天国に迎えられる」といった期待にすがったりする心の動き——これこそが、キリスト教の本質だとニーチェは主張しました。

信仰者として「それは違う」と言いたいところですが、まったく根拠がないとは言い切れないのが、つらい現実です。

旧約聖書には、「私に恥をかかせた敵に復讐を」「私を虐げる者を神は裁く」といった記述がたびたび見られます。そこには「弱者であるイスラエルが、いつか神の力によって高く引き上げられ、今まで威張っていた異邦人を屈服させる」といった、恨みを含んだ語り口も散見されます。

また一部のキリスト教カルトでは、「裁きの時には自分たち信者だけが天に引き上げられ、選ばれなかった者は地獄に落ちる」と主張し、現世での劣等感を、終末における「選ばれし者」の優越感で補おうとするような傾向さえあります。そうした姿勢は、確かにニーチェの「ルサンチマンの宗教」という批判を完全には否定できないものでしょう。

しかし、キリスト教の本質はそのようなものではないはずです。

キリストが受難の時、敵に求めたのは復讐ではなく、赦しでした。私たちの「敵」とは、富裕層や権力者といった外的な存在ではなく、私たち自身の心に住みついている「ルサンチマン」、すなわち、劣等感から生じる優越感への渇望——それを吹き込む悪しき思いです。

誰かが私たちを苦しめているのではなく、もっとも身近な場所にある、自らの傲慢な心が、私たちを本当の意味で苦しめる「敵」なのです。

ですから、私たちが神に「敵に勝たせてください」と祈るとき、それは「誰か」への復讐の願いではなく、自分の中の弱さと戦うための祈りであるべきです。そして、感謝と賛美こそが、ルサンチマンの入り込む余地を与えない、信仰の最も健やかなかたちです。

ニーチェの思想は、キリスト教とは本質的に相容れないものです。しかし彼の批判の一部には、私たち信仰者が謙虚に受け止めるべきものが含まれているのも事実です。

もしも、自分の心の中でルサンチマンが首をもたげていると気づいたとき——そのときこそ、私たちは真の「敵」を見定め、神に祈ることを忘れてはならないのです。

見学および取材ご希望の方は
​メールまたはお電話にてお気軽にお問合せください。

For those who wish to visit and cover the event, who would like to learn more about the Orthodox Church,
Please feel free to contact us by e-mail or phone.

管轄 盛岡ハリストス正教会 司祭 ピーメン松島拓

morioka.orthodox@gmail.com

連絡先 :盛岡ハリストス正教会 019-663-1218

     ( 教会事務局:個人宅  0186-42-1443 )

©2023 北鹿ハリストス正教会生神女福音会堂

bottom of page