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大館地方最初の伝道者

【ロシア正教の伝道が始まる】
 大館地方に正教会の伝道者として最初に入ったのは函館復活教会のアレキセイ山中友伯(天保12年・1841年5月12日生~大正6年(1917年2月20日没)である。

 十二所にアレキセイ山中友伯がやって来た時、正教の教えを最初に受け入れたのは赤平操である。赤平は嘉永4年生まれで家は代々十二所侯に仕えていた。縁故あって十二所から隣村の曲田に移り住んでいた赤平操は、曲田の畠山市之助の親類の要望にこたえ、村の事務をとり、子供達に学問を教えていた。後の曲田福音聖堂の建立者である畠山市之助は弘化3年2月19日曲田に生まれる。
 耶蘇教伝道者の来村を聞いたとき、畠山は赤平にその是非を判ずることを願う。赤平は山中友伯の講議所に通い、論議を交わし、やがてその教えを認めるようになる。赤平は市之助に正教を信ずるべきだと勧めるが、市之助は代々の熱心な仏教徒であったためなかなか決心がつかずにいた。そのうち、赤平らは「パエル」の名で洗礼を受け、市之助に正教を勧めていった。
 伝教者アレキセイ山中友伯やパエル赤平操の尽力により、明治12年4月23日、畠山市之助はこの地方の管轄司祭である函館復活教会のロシア人修道司祭アナトリイ・チハイにより、毛馬内の目時家(現小坂町荒川)で「イォアン」の名で領洗している。

【心を開く人達】
 大館ではこの頃、苦難にあいながらも、正教に心を開く人達が増え、函館へ旅立つ人の記録が残っている。
 『北秋田郡大館士族泉清、鹽谷某の両名は耶蘇教受業のため去月中函館復活教会へ出掛けるよし』(秋田遐邇新聞 明治12年4月6日 第802号)
 泉清はこの後、明治15年函館で写真館を開業、漁業と写真業を営んでいる泉とその家族を「正教会の習慣を守り、キリスト教の中に育まれた家族」であると賞賛している。一方鹽谷もまた正教の勉学を収め、故郷大館会の中心的人物として活躍していく。
 さて、イォアン畠山市之助はその後、十ニ所町町会議員として町政に尽くし、また、部落の生活改善の為の一策として、葬式、供養等、仏教に比較して費用がかからないキリスト教を部落民に勧め、村民のほとんどを信者に導いていった。
 明治25年には生神女福音会堂を建立、東京復活大聖堂(ニコライ堂)をかたどった会堂として1892年(明治25年)に成聖された。イコノスタスのイコンは全て山下りんの作。26年正教会伝教補助、29年には自給伝教者となり、曲田周辺の伝道にあたる。

 明治44年日本ハリストス正教会宣教50年記念祝賀会に於いて功労多として、感謝状を受ける。ニコライにより「真の正教徒」として数々の説教で紹介される程の篤信家であったイォアン畠山市之助は大正4年4月14日午後11時50分永眠する。
 パエル赤平操は士族の生活の為、酪農・養蚕業を手がけていく。やがて大館、花輪、扇田と移り牛乳屋を開業、明治28年大館病院御用牛乳屋(赤平牛乳店)となり地域に貢献した。
 赤平・畠山等と信を共にした者に中山の佐々木定吉、十二所の城忠貞、石井忠雄等がいる。城忠貞は明治31年~32年頃鹿角郡長となる。佐々木定吉は上川沿村村会議員として永く地域に貢献し、市之助の後、この地方の正教徒の中心になって後世に信仰を継承していく。

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