北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂
神父さんのおはなし
ハリストスによって洗を受けし者ハリストスを衣たり 2024年1月
私たち、正教会に属する人間は、一人の例外もなく洗礼を受けています。それはハリストスが復活し、使徒たちに「世界中の人々に父と子と聖神の名によって洗礼を授けなさい(マトフェイ 28: 19)」と命じられて以来、遂行され続けていることです。キリスト者として生きるということの始まりには必ず洗礼があり、洗礼を受けているということと受けていないということの間には根本的な隔たりがあると言っても過言ではありません。
洗礼式の最初にまず行われるのは悪魔との決別です。私たち人問は、あるいは世界にあるあらゆる存在は、神によって創造された素晴らしい本性を持ちます。しかし天使の中のある者が悪に堕落し、人間がその悪にそそのかされて以来、その素晴らしい本性は罪と死の醜悪な歪みに汚染されてしまいました。私たちは洗礼を受ける前に、その悪と決別するという強い意志を宣言する必要があります。「悪魔とのあらゆる関わりを捨てるか」と司祭に尋ねられた受洗者は「捨てる」と自分の言葉で意思表明します(乳幼児の場合は代父母が代わりに答えます)。そして洗礼盤の前に進められた受洗者は父と子と聖神の名によって三度水に沈められ、罪に汚された古い人間性を洗い流されます。いや、「洗う」という生易しいものではなく、むしろ「死ぬ」と表現する方が適切かもしれません。水に沈められ、古い人間性は殺されます。洪水によって罪深い人々が滅ぼされたように(創世記6-9章)、ヘブライ人を追い立てるエジプトの軍勢が海に飲み込まれたように(出工ジプト1 4章)、私たちの中に潜む悪もろとも私たちは水の中で死にます。そして死んだ者に次に与えられるのは「復活」です。私たちが洗礼から上げられるとき、私たちは死から甦ったハリストスの復活に与ります。イイススはかってご自身を訪ねてきたニコディムに「人は誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない(イオアン3 :3 )」とお話しされました。洗礼が私たちに示すものは、この「新しく生まれる」という全く新しい者への改まりです。
洗礼盤で洗われた受洗者はその後直ちに神・聖神の恵みの印である聖膏という香油を塗布されます。水によって洗い清められ、新しい者へと生まれ変わった受洗者は、今度は聖神を受けます。先ほどのニコディムにイイススは続けて「人は誰でも水と神(しん)とから生まれなければ神の国に入ることはできない(35 )」と言いました。私たちの新しい人間性は神・聖神を受けることによって成就されるのです。聖使徒パウェルは、私たちキリスト者は「聖神の宮(コリント前6: 1 9)」であると言っています。私たちは自分自身を神に属する者、神に一致する者として神に委ね、聖神の神殿として世の光となります。そしてその神との一致を私たちに実現する方法としてハリストスご自身によって定められたのが聖体機密です。
聖体は機密の晩餐(最後の晩餐)でハリストスが宣言した通リ、主ご自身の肉と血です。私たちはこれを領食することによって神と一致する者となり永遠の生命を得ます(イオアン6章)。聖体を受けることは至聖三者の名によって洗礼を受けた人にしか許されません。私たちが天の国に入ることとは神と一致して永遠の生命に与ることであリ、神との一致は聖体を領食することによってもたらされ、その聖体は洗礼を受けた者に与えられます。神が私たちに与えた救いの約束には洗礼という入リ口が設けられているのです。そして洗礼はあらゆる人に向けて開かれている リロです。教会はいつでも人々を洗礼に向にて招いています。多くの人と神の国の喜びを分かち合い、愛する人々とともに救いに与りたいと思っているからです。主の洗礼祭(神現祭)を機に、まだ洗礼を受けていない人も、洗礼を受けることを望む人も、すでに洗礼を受けて長い歳月が経っている人も、改めて洗礼の恵みについて考えてみたいものです。