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​宣教の沿革

【函館領事館】

 日本にロシア正教が伝えられたのはゴシケビッチが函館赴任した時に始まる。
 ペリーの浦賀来航からわずか1ヶ月半後の1853年8月22日に、ロシアの使節、海軍中将エフィーミー・ワシーリエヴィチ・プゥチャーチンはパラーダ号をはじめとする四隻のロシア艦隊を率いて長崎へやってきた。
 彼はペリーとは違って威嚇の態度はなかったが、プゥチャーチン一行もやはり日本の門戸を開き日本との通交を求める北からの「黒船」であった。1855年2月、日本はロシアとの間に仮条約ともいうべき日露和親条約を下田で結んだ。 

 1858年8月には、さらに本条約ともいうべき日露修好通商条約が江戸で調印された。ロシアは函館に領事館を設置し、初代領事としてゴシケビッチが幕末の安政5年(1858年10月24日)に着任した。

(『宣教師ニコライと明治日本』より)

【ニコライ来日】
 翌年にロシア領事館付属施設として「救主復活聖堂」《現函館ハリストス正教会》が建設され、神学生であったニコライは、この領事館付属聖堂の司祭募集の広告を神学校で見つけ、日本伝道を決意し、文久元年(1861)三代目領事館付司祭として函館に赴任する。
 幕末の日本に単身で渡来したニコライは、さまざまな迫害に臆することなく、困難をのりこえ、不屈の闘志と神への献身と日本人への愛をもって日本人の心に、新しい信仰の火をともそうと宣教をめざしていくのであるが、当初は切支丹禁制下であったため、布教伝道の自由はある筈もなく、ニコライは、日本伝道の志を秘めながら、日本語の研究を始めることとした。まるで体当たりするように日本語の習得に励み、日本の歴史を学び、日本人との接触を試み、徐々に宣教の備えをととのえていったのである。「日本に着くと私はあらん限りの力を注いでこの国の言葉を学びにかかりました」とニコライは後に語っている。  

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