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大湯ハリストス正教会

​鹿角に蒔かれた正教の種

当会堂が位置する大館市に隣接する現在の鹿角市十和田大湯に、かつて大湯ハリストス正教会がありました。戦争や社会情勢の変化において迫害を受けたり、信者の家を教会にあてたりしながら、1980年代頃まで細々とそれは存在しました。

《銘度利加》

「さきの世で繋がる人たちはとうに立ち去った」 -大湯出身の十田撓子さんの、 第68回H氏賞に輝いた第一詩集『銘度利加』の表題作 「銘度利加」の冒頭の一句である。

銘度利加とはハリストス (ギリシャ語でキリスト) 正教会の受洗者名簿のことで、 受洗年月日、 聖名・氏名、生年月日、伝教者、 授洗者、 代父・代母、 備考 (続柄等) が明記される。 十田さんが目にしたはずの 『陸中大湯福音教会銘度利加』には、明治12年 (1879) から平成2年 (1990) 12月までの受洗者158名が記されている。 その殆どが明治・大正時代の受洗者で、 第二次世界大戦後の受洗者はわずか5名に過ぎない。

《ニコライの来日》

キリスト教社会は大きく分けて三つに分類される。ギリシャ語文化圏からロシアに広まった東方正教会、西ヨーロッパに広まったローマ・カトリック教会とそれから分かれたプロテスタント教会 (新教) である。東方正教会はギリシャ語文化圏に伝道されたため、ギリシャ正教会とも呼ばれるが、 「聖書をその国の言葉で翻訳し、その国の言葉で奉事をする」 という伝道形態をとったことから、 ロシアでは「ロシア正教会」と言う。

 

日本にロシア正教が伝えられたのは幕末の文久1年(1861)、函館のロシア領事館付司祭として来日したニコライによってである。日本伝道を決意し自ら志願して来日したニコライは時に25歳。 大館出身の医師木村謙斎の塾に毎日通って、日本語のみならず日本の古典や歴史、儒教、神道など日本について基礎知識を精力的に吸収した。

このニコライに心酔し正教会最初の領洗者 ( 受洗者)となったのが、坂本龍馬のいとこで、神宮の沢辺琢磨、 仙台藩金成出身の医師酒井篤礼(本姓川俣) 、盛岡藩金浜出身の浦野大蔵の三人である。 洗礼は慶応4年(1868)4月、来日から7年目のことであった。

《 鹿角への布教-大湯ハリストス正教会の盛衰》

やがて函館を起点とし、 青森県 岩手県、 宮城県へと戊辰戦争で敗れた東北地方で活発な布教活動が展開され、 日本ハリストス正教会としての組織も整えられていった。

鹿角へ最初に伝道したのは、副伝教師だったステファン江刺家具太である。

江刺家は青森県三戸郡相内村 (現南部町) の人、 明治5年にニコライから洗礼を受けた。 彼は明治10年1月から毛馬内髙田の湯瀬哲太郎家の二階を借りて説教を始め、 早くも20代の相川喜六、 沢出速水、 大森龍太らを入信させてゆく。 沢出が荒川村(現小坂町)の士族目時藤次郎家の井戸の傍の小屋に住んでいたことから、 目時も正教に傾倒し、 かくて明治11年9月19日、 鹿角における第1回の洗礼がマトフィ影田孫一郎によって行われた。 目時一家や沢出・大森一家、 相川喜六など、 受洗者23名である。

その後、明治12年1月に大湯の黒沢茂八郎26歳、 13年5月に千葉佐惣治22歳、 佐賀源吾50歳らが目時家で受洗したとされる。

秋田県文化財に指定されている大館市の曲田福音会堂を建てた畠山市之助も12年4月、目時家で受洗した。 この目時藤次郎の長男金吾と3男(泉沢) 信吉は、 司祭者となって全国的に活躍することになる。

 

鹿角に蒔かれた正教の種は、 確実に実を結んでいった。

明治41年7月29日、 伝教者高橋省吾の秋田県知事への報告では、信教徒として 「大湯ハリストス正教会 166名」 とある。 翌42年9月11日、 大湯ハリストス正教会管理者浅井末吉が秋田県内務部へ出した報告に、 聖餐を受ける資格者 (洗礼を受けた者)として、「大湯ハリストス正教会 143名、 内訳:大湯56名 小坂30名 荒川21名 毛馬内8名 小枝指7名 花輪21名」 と記されている。

大湯正教会が鹿角全域をカバーしていたことが見てとれる。

大湯では、 北家の家臣であり剣術指南役である家に生まれて、小学校教師であった千葉佐惣治の感化を受けた青年達が続々と入信していった。 佐惣治は程なくして小学校を辞職し、のち村会議員、 さらに郡会議員となり、 小坂鉱山煙害問題や十和田湖の観光宣伝などに精力的に取り組むが、 彼の精神的支柱が正教であった。

佐惣治の影響を強く受けた教え子の浅井末吉 (小魚)は東京駿河台の伝教学校に入り、 やがて大湯ハリストス正教説教所の管理者となる。 小魚は俳人として名をなし、後に郷土資料の収集や、 大湯環状列石の発見者として大きな功績を残した。

 

明治後期の大湯村では、信徒の家が多い時で20数戸を数えるまでになった。二度のニコライの来鹿で盛り上がった教勢も、日露戦争や第一次・第二次大戦を経て、 多くの信徒が仏教に戻ったりカトリックに移ったりなどして、 急速に衰退していった。 かつては大円寺墓域のあちこちに木の十字架が立っていたが、 現在はほとんど見られない。「天には栄光地には平安」 -ある信徒一家の墓石に刻まれて今も残る言葉である。

文責: 高木英子

(大湯郷土研究会)

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