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神父さんのおはなし

私たちはプレーヤー 2024年7月

私が大学生の頃、友人とよく行っていたボウリング場にはビリヤード台がありました。なんとなく面白そうだったので、簡単なゲームのルールを覚えてプレーしてみると、キュー(手に持っている棒)で白い手球を打ち、場のボールにぶつけて穴に落としていく感覚が小気味よく、しばらく仲間内でビリヤードブームとなったことが思い出されます。

ビリヤードではぶつけられたボールが次のボールにぶつかり、連鎖的にボールを動かしていくことがあります。またゲームプレーの始まりには、三角形なりひし形なりに並べたボールの一番先頭のボールに手球を強くぶつけ、そのエネルギーが伝わった各々のボールはぶつかり合って場のあちこちに散らばっていきます。球が当たったのは先頭のボールだけなのに、その結果はすべてのボールに及びます。またプレーヤーがキューで突けるのは白い手球のみですが、手球に与えられたエネルギーは間接的に場にある全てのボールに関与していく可能性があります。

私はしばしば人間はビリヤードの球のような存在だと感じます。良いことがあった時、人はその嬉しさで良いエネルギーが満ち、次に出会った人にその良いエネルギーを伝播することがあります。喜び笑顔になった人が、その笑顔を他者に向けるだけで次の人にも喜びをもたらします。神の手球としての「恵み」は、受けた人がその恵みの力を次の人に受け渡していくことができ、その連鎖がこの世界をより良いものとしていきます。

逆に悪い感情に突き動かされた人が、その怒りや憎しみを誰かにぶつけた場合、そのぶつけられた人にも悪いエネルギーが満ち、今度はその人が次の人に怒りや憎しみの力をぶつけていく連鎖も起こり得ます。悪魔の突いた手球はたった一つでも、その一つをきっかけとして無数の人々を罪に落とし込んでいくこともまたあり得るのが人間というビリヤード球の恐ろしいところです。

しかし私たちがこのビリヤード球と違うことがあります。それは私たちに意志があるということです。神からの良い恵みを受けたのであれば、私たちはそのエネルギーをより加速して、強いエネルギーとして次の人に渡すことができます。悪魔の一突きを食らって怒りにかられそうなときは、そのエネルギーを減衰し、コースを変えて誰にもぶつからないようにすることも、また自分の意志として行うことができます。それこそが私たち人間が 人間である所以であり、 ただ突かれて弾き飛 ばされる球ではない人間の尊厳です。

私たちもまたこのビリヤードに参加しているプレーヤーなのです。ただのボールではない、意志あるボールとして神の勝利のため善き力を伝え、悪しき力を減らす、そういうものでありたいですね。

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