北鹿ハリストス正教会 生神女福音会堂
神父さんのおはなし
神さま見てござる 2024年8月
私は教会の仕事に就く前は、 輸入ワインを 個人向けに販売する会社の営業マンをしていました。営業という仕事は、毎日一定の仕事をこなしていくのとは違う難しさがあります。 嘘のように次々と商品が売れていく日もあれば、何をやっても売り上げゼロが並ぶ日々もありました。 この波の上げ下げに翻弄されながらもなんとか日銭を稼いで、かいくぐって生きていくのが営業マンという職種です (大企業の営業ならまた違うのかもしれませんが・・・)。
また営業に付き物なのがちょっとした運の良し悪しの差です。 見本市で同僚と二人で販売をしていたとします。 向こうから二組のお客が歩いてきて、それぞれ接客を始めました。 こちらは1時間も商談をして契約に至らなかったのに、同僚はものの10分で10万円の契約をまとめてしまった。
2人の営業力の差があったとしても、実のところはどちらのお客に声をかけたかの時点で勝負がついてしまっていることが多々あります。なんであの時、 あっちの人に声をかけなかったんだろうと悔やんだところでどうにもなりません。このように売れ行きに一喜一憂しながら、 いやむしろ売れない苦しさにほぞを噛みながら苦悶の表情で販売をしているとますます売れ行きが悪くなってくるのがまた営業にはありがちなことです。
するとそんな姿を見かねてか、能天気なことで評判の先輩が近づいてきて声をかけてくれました。 「松っちゃん、大丈夫だて。神さま見てござるて」。 こてこての名古屋弁で喋りながら背中をバシバシと叩かれます。
気を取り直して、次のお客さんに声をかけて営業を始めます。結果まあ大型契約とは言えないですが、なんとかしのげる程度の売り上げは作ることができました。「ほれ見い、神さま見とらっせるでしょうー」。くだんの先輩がニカっと笑って声をかけてきます。
この先輩は別にクリスチャンではないので、彼の言う「神さま」は私たちの「神さま」とは違うかもしれません。でも「神さまは見てござる」という感覚自体は私たちも決して苦しい時も、忘れてはならないものでしょう。
辛い時も、その苦悩に立ち向かっている姿を神さまは見ているよ、だから大丈夫だよ、と思えるか思えないかで、私たちの人生の生きやすさは大きく変わってきます。
苦しくても一生懸命頑張っている人を神はちゃんと見ている。そう信じることで次の一歩を踏み出せることもあるでしょう。そして神を頼みながらなんとかかんとかやっていれば、ひょっこりと解決の糸口が掴めてしまったなんてこともしばしばあります。
人生の大きな苦悩に比べたら、営業マンの 1日の売り上げがどうなるかなどは小さな悩みに過ぎません。しかしこの時言われた 「神さま見てござる」 という言葉には救われたし、 案外とその後も私の心を支える言葉になったなあと思うのです。